후크바라 모토즈미 관
Fukubara Motozumi Pavilion
Sep.2,2012








本日の画像:台湾の神様
台湾の神様

戦国時代の宮島さんの神主が語る厳島神社の歴史と信仰
2012年9月2日(日)

初掲:2012/9/10(月)

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| (1) 戦国時代の宮島さんの神主・棚守房顕(たなもりふさあき)とその覚書について
| (2) 「棚守覚書」が記す平家
| (3) 厳島神主家の最期を飾った友田興藤
| (4) 毛利元就と棚守房顕
| (5) 厳島信仰
| (補論) 厳島への海外観光客の受け入れについて(現在地) |


(補論) 厳島への海外観光客の受け入れについて

何といっても世界遺産である。その事実だけで、多くの国から観光客を惹きつける事ができる。

但し、現在、中・韓から日本を訪問する人の内、広島県への訪問者は、1%にも満たないそうである。台湾からは、辛うじて1%を超えている。

福岡や大阪から、外国人専用無料高速シャトルバスを運行させるなど、何らかの政策が必要と思われる。

神社という形式は、中国人や韓国人にとって、歴史認識に抵触する敏感な部分だが、台湾の若者の間では、日本での神前結婚が流行しているとも聞く。厳島神社の建物としての様式美や、拝殿での結婚式は、宗教観や歴史認識のギャップを乗り越えて好印象を得るだろう。

戦国の合戦場としての厳島をPRするにあたっては、秀吉の全国統一が、中国大陸征服のための朝鮮出兵に直結した、という歴史的経緯は、念頭に置いておく必要がある。

ただ、そこまで歴史に精通している観光客は圧倒的少数派であろう。

どの国でも、軍記物語の面白さは、単純に人気がある。

この夏、大連の新華書店で購入した「日本戦国…這是日本史上最濃墨重彩的伝奇時代」(2012/5)という書物は、日本の軍記物を直訳したような内容で、極めて詳細である。

あの、気の遠くなるように長い、山岡荘八「徳川家康」も、中国でヒット中の由。

「日本戦国」では、厳島合戦について「厳島突襲」の1節を立てているだけでなく、その前哨戦についても1節を立て、 「宮川房長、山代(山口県岩国市)・山里(広島県廿日市市)を経て、折敷畑山に布陣」とした上で、 「毛利軍は、まず正面部隊が攻め登りかけて後退し、 敵部隊を麓まで誘い出したところで、左右に控えていた部隊が挟み撃ちし、」と、三方攻めの詳細な戦術解説まで行っている。

近い将来、このようなピンポイントの知識を持って訪れる中国人観光客も出現するであろう。

地元住民として、そういった外国人の濃密な歴史紀行の欲求に対する受け皿作りにも、着手する必要があろう。

様々な宗教観…日本人は無神主義に近いが、世界的には、伝統的な宗教観が、色濃く生活に浸透している国も少なくない。そうした状況を踏まえて、外国人観光客と接する必要があろう。

台湾における民俗信仰(道教)について紹介する。

現在も、街中いたる所お廟があり、老若男女を問わず、参拝者が尽きない。それもそのはず、願掛けする際は、御賽銭は不要との由、日常のお参りは、神様への挨拶程度の気軽さで行っていると云う。

一つの廟内に、様々の神様が、あちこち祀られていると、 日本人としては、御賽銭を投げて、御願い事をする神様を、その中からどうやって絞り込もうか、と考えたくなるが、 いや、御賽銭は要らないので、全ての神様に挨拶をして回りましょう。その順序にも、決まりがあるそうだ。

一方、御利益が得られた際には、きちんと、御世話になった神様に返礼するのが礼儀である。

台湾人は貯蓄好きだが、将来の生活に備える他にも、 東日本大震災のお見舞いが、迅速かつ大胆に実行されたように、神様にお礼返しする時期や方法を選んでいる節もある。

「飛虎将軍廟」の事例…戦時中、台南市上空に米軍機が襲来し、応戦した日本の零戦が次々撃墜される中、1機が尾翼から発火し、大集落へ向かって落下、そのまま墜落すると大火事になるという時、その零戦は機首を上げて上昇し、町はずれの畑の方へ飛び去った。

飛行士は、落下傘で飛び降りたが、米軍機の機銃掃射を浴びて墜落死した。後日、その飛行士は、杉浦海軍少尉だと判明した。

1971年、町の有志が、身を挺して町を戦火から救った少尉の為、小さな祠を建て、毎日お参りをした所、稲作は豊作、豚や魚の養殖も順調、中には宝くじで大金を当てる者も出てきたので、祠を立派な廟に建て替えた。

日本からの参拝者を歓迎するため、朝は「君が代」、夕には「海ゆかば」のテープを流している。

しかし、それは、台湾人が、日本の軍国主義に郷愁があるからではなく、何かに事寄せては、あちこちで祠が設けられる中、結果的に、この祠の御利益の大きさが評判になったのである。

神様も自由競争にさらされている。

日本人の来訪を歓迎するのは、そうすれば少尉が喜ぶだろうと、神様の気持ちを思いやっての事だ。

こうした信仰の姿は、清盛から房顕に至る、いわゆる中世の厳島信仰の姿と、相通じるものが多いように思う。

(おわり)


| (1) 戦国時代の宮島さんの神主・棚守房顕(たなもりふさあき)とその覚書について
| (2) 「棚守覚書」が記す平家
| (3) 厳島神主家の最期を飾った友田興藤
| (4) 毛利元就と棚守房顕
| (5) 厳島信仰
| (補論) 厳島への海外観光客の受け入れについて(現在地) |


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