후크바라 모토즈미 관
Fukubara Motozumi Pavilion
Sep.2,2012








本日の画像:棚守覚書
棚守覚書

戦国時代の宮島さんの神主が語る厳島神社の歴史と信仰
2012年9月2日(日)

初掲:2012/9/10(月)

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| (1) 戦国時代の宮島さんの神主・棚守房顕(たなもりふさあき)とその覚書について(現在地)
| (2) 「棚守覚書」が記す平家
| (3) 厳島神主家の最期を飾った友田興藤
| (4) 毛利元就と棚守房顕
| (5) 厳島信仰
| (補論) 厳島への海外観光客の受け入れについて |


(1) 戦国時代の宮島さんの神主・棚守房顕(たなもりふさあき)とその覚書について

推古天皇の御世(593-628)、佐伯鞍職(さえきのくらもと)、厳島神社の初代神主となる。

棚守覚書「そもそも厳島大明神と申し奉るは、わが朝、推古天皇の御宇、端正5年(戊申)12月13日、この島に来臨ましまして悦び給う」とあるのは、長門本「平家物語」巻5「厳島縁起」の内容と符合する。但し、長門本では「端正5年(癸丑)9月13日」。戊申という干支は、推古天皇在位中には該当がない。癸丑は、推古天皇即位の年に当たる。

以後、代々、佐伯氏が神主を世襲した。

663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、倭国・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れた事に伴い、 西日本の防衛が喫緊の課題となった事が背景であるかどうかは知らないが、 中央の佐伯連(むらじ)が、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国の豪族を、佐伯直(あたい)、佐伯造(みやつこ)として組織化した。

佐伯鞍職は、安芸国における佐伯直、あるいは、佐伯造に該当する豪族だったのだろう。

平清盛(松山ケンイチ)の時、神主・佐伯景弘(かげひろ:温水洋一)の解文(げぶみ:申請書)が朝廷に許され、1169年、海に浮かぶ社殿が造営された。

平家が滅亡し、承久の乱に勝利して西国を掌握した鎌倉幕府は、佐伯氏を退け、藤原氏を神主に任命した。

棚守覚書「源氏の代となる。先の神主・佐伯景弘は断絶の間、鎌倉より神主職を改めらる。斎院の次官・親能(ちかよし)の次男・親実(ちかざね)に神主職を賜り下向す」

神主になった藤原氏は、後の戦国大名・毛利氏とも縁故がある。

初代・藤原親実の父・親能は、大江広元(岸田森)とともに、 幼い頃、明法道(みょうほうどう:法学)を家業とする中原家の養子となり、頼朝(石坂浩二)が挙兵すると、鎌倉に下向して、中原広元は政所別当に、中原親能は政所公事奉行となり、幕府の行政機構確立に貢献した。両人とも功なり名を遂げた晩年、本姓に復した。

大江広元の4男は、広元の所領の1つ毛利荘(もりのしょう:神奈川県厚木市)を相続した毛利季光(もりすえみつ:高橋秀樹)であり、後の毛利元就(もりもとなり:中村橋之介)の先祖である。

神主・藤原氏は、当初は安芸国には赴任せず、代官を桜尾城(廿日市市)に在城させたようである。

神主の地位を追われた佐伯氏は、厳島に在島して、神主配下の大宮棚守(たなもり)となった。棚守職は、神棚を守る役目であり、厳島では、大宮(本社)・客人宮(まろうどのみや:世界遺産厳島神社の入口にある社殿)・外宮(げくう:現在の地御前神社)の3か所に棚守職が置かれた。

厳島神社のスタッフは、社家衆(しゃけしゅう)と呼ばれる。 それは、社家(しゃけ:神官)方、内侍(ないし:巫女さん)方、供僧(くそう:僧侶)方から構成されるので、社家三方(さんぽう)とも言う。

僧侶が神社のスタッフに含まれるのは奇異に感じられるが、江戸時代に国学が起こるまでは、神仏習合といって、神様と仏様は区別されず崇拝された。むしろ八百万の神々は、仏様の権現(ごんげん:化身)と解釈され、仏様の方が神様より格が高かった。

大宮棚守は、いうまでもなく社家の中心を占める役職であった。

藤原氏は、その後、土着化・領主化の道を歩み、厳島神主家と呼ばれた。その所領を神領といい、安芸国内の諸所に飛び地を持っていたが、中心となるのは、現在の己斐・草津から、五日市、廿日市、大野浦、旧・佐伯町などの一円である。

神主家の配下として、神領内の各拠点に在城する部将たちを神領衆と言う。

南北朝~戦国の動乱期、飛び地は近在の国人領主たちに奪われ、後に東西に分かれての内部抗争も起こって、厳島神主家は、弱体化の道を歩む。これに代わり、大宮棚守・房顕(ふさあき:1495-1590)は、陶氏・毛利氏・大内氏と師旦の関係(御師と旦那)を結び、巧みな外交を通して大宮棚守の地位を高めた。

御師(おし)というのは、VIP専属の神官で、神事の執行や宿所の提供などに便宜を図った。

その後、厳島神主家の滅亡に伴い、棚守房顕は、社家衆代表の地位を不動のものにした。

「宮島さんの神主が御神籤引いて申すには~♪」(1901唱歌「花咲爺」の替え歌)の歌詞は、私には、棚守房顕をモデルとして誕生したように思われてならない。

房顕は、元就(1497-1571)とは2歳年上の同世代で、86歳の時(1580)、覚書を著わし、厳島神社の由来や神事、彼の生きた時代の出来事について貴重な記録を残した。宗教人らしい、世俗と一線を画した公平中立な視点で世相を斬り、特に、元就が陶晴賢(すえはるかた:陣内孝則)の大軍を奇襲で討ち破った厳島合戦(1555)前後の状況は、ご当地の生き証人の記録として興味が尽きない。

(つづく)


| (1) 戦国時代の宮島さんの神主・棚守房顕(たなもりふさあき)とその覚書について(現在地)
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